「茶」あるいは、「茶の文化」を考えることは、広い範囲にわたる総合芸術としての「茶の美」を知ることであります。
書・絵画・陶器・漆・建築・染織・金工・竹工・・・と数え上げればきりがありません。その全ての美しさが感じられるように、たっぷりと打ち水された露地の飛び石に足を運びたいものです。

お茶は、もともと薬として日本に伝わってきました。鎌倉時代初期の僧、栄西が中国より種を持ち帰り、抹茶法と共に伝えられました。

室町時代に入り、村田珠光により簡略であった茶の様式に、小座敷に炉を切りお茶を催す「茶道」が確立していきます。桃山時代になると千利休が村田珠光・武野紹?の茶道を受け継ぎ、禅の精神を盛り込んだ「茶禅一味」の侘茶を大成させました。江戸時代には、利休の孫、宗旦に引き継がれ宗旦の子が、不審庵表千家・今日庵裏千家・官休庵武者小路千家、の三千家をたてました。武家の茶人では、小堀遠州・片桐石州・松平不昧・井伊直弼などの大名が「茶道」を好みました。

茶の湯の発達と共に優れた茶道具が選ばれ名物が確立していきました。
<大名物 >室町時代に足利八代将軍義政が、中国の名器、名画を能阿弥に選定させ東山御物としました。
< 名物 >桃山時代に千利休、山上宗二により「茶器名物集」が選ばれました。
<中興名物>江戸時代に小堀遠州が有名な茶器を選出しました。

大名物、名物、中興名物が確立していくにつれてそれらの名器、名画に添えられ、茶人の優れた美意識により、選択され大事に扱われてきた裂が、名物裂と呼ばれるようになりました。

文禄四年(一五九五年)「名器録」に金襴32、緞子11、間道19種の名称略説があります。
元禄七年(一六九四年)「万宝全書」に名物裂62余種があらわされ、この頃より名物裂の名称が確立したものと思われます。
寛政九年(一七九七年)「古今名物類聚」に名物裂150余種をあらわし、名称と内容を整理したのが、出雲松江藩七代藩主、松平不昧であります。

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